管理人がある日突然、乳がん宣告受けました。
でも、笑って治すわよ!!
カテキン市内で行われている「人体の不思議展」なるものに行って来た。
学校の理科室に必ずと言っていいほど(今はないか?)ある、ホネホネの標本。アレは偽者だが、今回は、すべて本物。そう、間近で、献体された方々の、「今の姿」を見ることができるのだ。そして、触ることも出来る(一部)
広い会場に、不気味なほどに飾られているホネホネの人体標本。しかも一体ではなく、全部で10以上はあったか。ホネホネだけではなく、皮も爪も神経もついている。内臓は取り出されているので、腹の中は空洞だけれど、それがかえって生々しい。
更には、部位ごとに、ケースの中に「標本」は展示されている。例えば、脳や心臓、他、人間の内臓(いわゆる『五臓六腑』)の、各パーツ。顔だけの「標本」もある(これは生々しかった…)
衝撃的だったのは、産まれる前に亡くなってしまった小さな命。取り出されたまま、研究のための材料として、使われた胎児たちだ。そのほか、身体を輪切りや縦切りにしているのもある。
行く前は、あまり考えなかった。というか、これを本当は子供たちに見せたかったのだ。だが、今になれば、見せなくて良かった、と少し思っている。気味が悪いから、とか、そういう理由じゃない。
会場には、解説の中に、「ここにある体は、すべて本人の意思により献体された方々です」と書かれてあったし、この展示会が悪いというわけじゃない。日本の医学向上のために、荼毘にふされることなく、死してなお社会に貢献してくれた貴重な身体だ。だからこそ、こういう機会に、人間の身体を知らせるきっかけになるのはとても意義あることなのかもしれない。
けれど。何だろう、この罪悪感は。時間が経てば経つほど、私は罪悪感に襲われている。
ケースの中に展示された「標本」は、身体をバラバラにされて、「展示物」として飾られている。皆、一様に「気持ち悪い…」「うわっ」と呟く。隣で小学生がふざけあっている。
これは、見世物なのか。そうじゃない。もっと、高尚な、命の尊さを再認識するための場所であるはずだ。
少し上目を向いた、「顔」だけの「標本」は、何を思ってその貴重な身体を差し出したか。
別のブースで「骨密度を測ろう」「あなたのお肌年齢は?」など、一回300円で調べられる機械が、果たしてこういう場所で必要なのか。
私は、今も、やはり、少し後悔している。それとともに、献体してくださった、今はこの世にいない「人体標本」になった方々へ、深い敬意を表したいと思っている。
私の隣で見ていた、小学生の兄弟の会話が、耳から離れない。
「これ、本物だって」
「へー。死んだ命をこんなことに使っていいのか?」
学校の理科室に必ずと言っていいほど(今はないか?)ある、ホネホネの標本。アレは偽者だが、今回は、すべて本物。そう、間近で、献体された方々の、「今の姿」を見ることができるのだ。そして、触ることも出来る(一部)
広い会場に、不気味なほどに飾られているホネホネの人体標本。しかも一体ではなく、全部で10以上はあったか。ホネホネだけではなく、皮も爪も神経もついている。内臓は取り出されているので、腹の中は空洞だけれど、それがかえって生々しい。
更には、部位ごとに、ケースの中に「標本」は展示されている。例えば、脳や心臓、他、人間の内臓(いわゆる『五臓六腑』)の、各パーツ。顔だけの「標本」もある(これは生々しかった…)
衝撃的だったのは、産まれる前に亡くなってしまった小さな命。取り出されたまま、研究のための材料として、使われた胎児たちだ。そのほか、身体を輪切りや縦切りにしているのもある。
行く前は、あまり考えなかった。というか、これを本当は子供たちに見せたかったのだ。だが、今になれば、見せなくて良かった、と少し思っている。気味が悪いから、とか、そういう理由じゃない。
会場には、解説の中に、「ここにある体は、すべて本人の意思により献体された方々です」と書かれてあったし、この展示会が悪いというわけじゃない。日本の医学向上のために、荼毘にふされることなく、死してなお社会に貢献してくれた貴重な身体だ。だからこそ、こういう機会に、人間の身体を知らせるきっかけになるのはとても意義あることなのかもしれない。
けれど。何だろう、この罪悪感は。時間が経てば経つほど、私は罪悪感に襲われている。
ケースの中に展示された「標本」は、身体をバラバラにされて、「展示物」として飾られている。皆、一様に「気持ち悪い…」「うわっ」と呟く。隣で小学生がふざけあっている。
これは、見世物なのか。そうじゃない。もっと、高尚な、命の尊さを再認識するための場所であるはずだ。
少し上目を向いた、「顔」だけの「標本」は、何を思ってその貴重な身体を差し出したか。
別のブースで「骨密度を測ろう」「あなたのお肌年齢は?」など、一回300円で調べられる機械が、果たしてこういう場所で必要なのか。
私は、今も、やはり、少し後悔している。それとともに、献体してくださった、今はこの世にいない「人体標本」になった方々へ、深い敬意を表したいと思っている。
私の隣で見ていた、小学生の兄弟の会話が、耳から離れない。
「これ、本物だって」
「へー。死んだ命をこんなことに使っていいのか?」
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